山本啓睦に興味をもっていただきありがとうございます。「左官職人・山本啓睦の誕生からこれまでの半生」エピソードを年齢ごとにまとめてみました。それではスタートです!!

1.誕生期

1967年 熊本県山鹿市生まれ。
ぼくの故郷は、熊本県の北部に位置し、山林に覆われた豊かな自然環境に恵まれていたため実家は農業を営んでいた。祖父母、両親、兄とぼくの6人家族で何不自由なく暮らす。3歳までは毎日野山を駆けまわり、健やかにのびのびと育つ。一方、父親は新事業を展開するが軌道に乗らず、あえなく借金だけが膨らみ、ぼくたち家族は故郷・熊本を離れることになる。

2.幼少期

ぼくが4歳の時、父親の運転で夜な夜な車を走らせ、祖父母を残し家族4人で初旅行?かと思いきや…まさかの夜逃げであった(笑)この時見た夜空の星は、ぼくの目に今でも鮮明に焼き付いている。着の身着のまま、行き着いた場所は港町・神戸。ここからぼくの神戸での極貧生活がスタートする!新居となる住まいは灘区。斬新なアパート?これが家か?ここに住むのか?4畳半一間、共同キッチン・共同トイレ・風呂無し・お化けつき(笑)4歳のぼくの想像をはるかに越えた、こわ~い生活が始まる。一番怖かったのが夜のトイレ。毎晩ぼくはピストルを持ち攻撃の火蓋を切る! (もちろんおもちゃです)お化けが出るとすぐに射撃するために・・!ちなみにお化けはもう死んでいるので殺せません(笑)ぼくの幼少期は「恐怖のサスペンスドラマ」なみの日々だった。。。

3.小学生期

小学生になると少年野球チームに入団。お金がなくて食べたいものも我慢するが・・・野球をしているときは全てを忘れて楽しむことができた。本当に野球が楽しくて仕方がなかった。この時のぼくの脳内メーカーは「野球と女子」野球がうまくなったら女子にもモテる。これしかなかった!!(笑)

4.中学生期

ぼくの父親は公害病を患い体が弱かったため、殆ど職につくことがなかった。そのため生計は母親一人で立てていたので生活は本当に貧しかった。父親の性格は一言で言うと「頑固で癇癪持ちのギャンブラー」(最悪です笑)学校から家に帰ると毎日親父がいる(思春期の子どもは、こんな家には帰りたくはありません)のでぼくは外でやんちゃばかりしていた。そんな中、中2の春初めて彼女ができる。顔を見ると心臓がバクバクする程のあま~い恋をする!そして野球が大好きなぼくは、彼女のお陰で練習も頑張ることができた。「将来は彼女と結婚してプロ野球選手になる!」これがぼくの夢となった。

5.高校生期

プロ野球選手になることを目標とした、ぼくの進路は神戸を離れる選択をする。選んだ先は岡山県。岡山理科大学付属高校。ここで野球を頑張って甲子園に出場し、そしてプロの道へ!そんなシナリオ(笑)です。残念ながら大好きな彼女とは別れてしまう。野球に専念し頑張る覚悟を決める。ぼくのポジションは中学も高校でもずっとキャッチャーだった。このポジションは扇の要。全体が見える唯一のポジション。統率力、観察力、判断力、包容力、気配りなど…幅広い能力が求められるポジションです。この時学んだ全てのことが今の左官職人のぼくにに生かされており、繋がっていたことに今更ながら野球の奥深さを感じる今日この頃です!!こんな野球生活でしたが高2の秋、ぼくの野球人生で史上最悪な事件が起きる。それは学費滞納(え??)親からの仕送りが止まる(うそー??)将来のぼくの夢は儚くも一瞬でリセットされてしまった(涙)(T.T)そしてぼくは退学となった(チーン)(T.T)17歳で神戸に帰り、家の借金返済のため働かざるを得なくなってしまった。。。

6.サラリーマン活動期

17歳で目標を見失ったぼくは、人生の出口の見えないトンネルに入ってしまう。仕事は工場の中で朝から晩まで働き、稼いだお金はわずかな小遣いを残し、あとは親の借金返済にあてる。目標と同時に自分自身も見失ってしまう。悶々としたなかで時間だけが過ぎていった。

7.バンド活動熱中期

19歳の夏、あることがきっかけで音楽を始めることになる。ストイックな性格のぼくはギターを買い、最初はビートルズからコピーをはじめロック、リズム・アンド・ブルースと、、、そしてどんどん音楽の世界に熱中しはじめる。メンバーは4人で「OLD BROTHERS BAND」を結成。ぼくの担当はボーカル&ギター。このバンドはうまく軌道に乗り週末は「神戸チキンジョージ」や他のライブハウスでも活躍する。ライブは本当にたまらなく快感になり最高に楽しかった。ぼくのバンド活動は19歳~27歳までの約8年間続きその後ピリオドをうつ。音楽と出会いぼくの人生は変わっていった。

8.父との別れ

ぼくの父親は生活習慣の乱れから入退院を繰り返し、心身ともに色々と影響が出始めた頃、日に日にどんどん弱っていった。当時鬱病とは診断されていなかったが、今思うと鬱病であった。ぼくが24歳の冬、人生史上最悪の悲しい出来事が起こる。父親は60歳で自ら命を絶ち、この世を去った。50歳になったぼくが今思うことは、生前父親が本来したくてもできなかったこと、やり残したことを、ぼくは思い切って何でもやること。そして父親が全くできなかった、社会に貢献するということ。それが父親にとっての最大の供養であり、ぼくの親孝行だと思っている。

9.左官との出会い

20歳の時、アルバイトにこないか?と先輩に声をかけてもらったことでぼくの左官人生がスタートする。左官の魅力に取りつかれてしまう。一瞬にして虜になった(笑)親方の元で一心不乱に技術を学ぶ。30年たった今でも満足することはない。日々進化していきたい。ぼくは左官が天職だと心からそう思っている。

10.阪神淡路大震災

1995.1.17 5時46分。今まで経験したことのないような衝撃に見舞われた。ぼくは地震が起こる前日、予告なしで初めて彼女の家に泊まることになった。この日はぼくにとって運命の分かれ道だった。ぼくの住んでいたアパートは全壊した。この日もし彼女の家に泊まってなかったら…ぼくはあのとき死んでいたかもしれない。でも今こうして生かされているということは、もっとこの世の中でやるべきことがあるからかも知れない。そして悲しいことに初代親方は地震では助かったのですが、二次災害で火事になり、奥さまを助けるため火の海に飛び込み、奥さまとともに亡くなられたのです。ぼくの心は張り裂けそうになった。左官を一から教えていただいた師匠のためにも、ぼくは絶対に左官というすばらしい職業を絶やすことなく、次世代につないでいきたいと思う。

11.結婚期

26歳で結婚!奥さんは 14歳の時初めてぼくがつきあった同級生。「将来は結婚したい!」と思っていた彼女と結婚する。子宝に恵まれ三人の娘を持つ。 (現在大学3回生・1回生・高2)プロ野球選手にはなれなかったけど、同級生の彼女と結婚する夢はかなった!(笑)

12.独立

平成16年6月 YAMACHIKA設立。 設立から現在まで13年間、山あり谷ありでしたがぼくの人生でこれまで困難な問題にぶつかった時、そこがいつも新たなスタート地点となり、そう考えるようにしてきた。問題とどう取り組むか?どう戦略を立てるべきか?これからも日々起こる問題の中で学んで行きたいと思う。

13.人生の目標

今年で50歳になった。ぼくのこれからの課題は健康な体を作ること。40代で腰痛と頸椎ヘルニアにかかり、かなり苦しんだ経験から「あそこの整形がいいよ、ここのカイロがいいよ…」といいと聞いたところは、全て通院したが思うほど回復せず…苦しむ中ぼくは3年前からジムに通いはじめた。筋肉を鍛え始めたところ驚く程、日に日に回復していった。今ではすっかり健康を取り戻すことができた。自分の筋肉に救っていただいたのでした(笑) これは本当なんです!!もちろん食事も徹底して、きちんとバランスよく食べるように心がけていますが、50歳にして要約自分の体を本当に大切にできるようになった。体が資本なのでまず鍛えることを生活習慣にすること。それから弟子の育成。左官は日本の文化だと思っているので絶対に絶やさないこと、次世代に継承する。そしてお客さまの悩みを解決し、暮らしを豊かにすることが家族の幸せとなり、そこに住む人が元気になることで地域の活性化にも繋がって行く。良い循環を左官を通して作っていきたい。住まいの悩みを解決することで地域社会に貢献し、まずは僕の住む関西、神戸からそれぞれの家が光で満たされること願っている。

山本啓睦に興味をもって下さり
最後まで読んでいただき、ありがとうございました

ぼくを気に入って下さった方はYAMACHIKAにお問い合わせくださいね(^^)